ホテルの価値は、客室だけで決まるものではない。
チェックインの印象、部屋の快適さ、窓からの景色、スタッフの一言、夕食の余韻とバーで過ごした時間、そして朝の光。そうした一つ一つが積み重なり、滞在の記憶は形づくられていく。その中でも、食の体験は極めて大きい。旅先で何を食べたか。誰と食べたか。どのような空間で、どのようなサービスを受けたか。それは、宿泊体験の記憶を深く左右する。
にもかかわらず、日本のホテルでは、料飲部門がいまだに「付帯」として扱われることがある。
人が必要で、原価がかかり、営業時間も長く、オペレーションも複雑である。朝食、ランチ、ディナー、宴会、バー、ルームサービス、婚礼、アレルギー対応、多言語対応。たしかにホテルの料飲は難しい。利益を出すことも簡単ではない。だからこそ、縮小や外注、簡素化の対象として見られることもある。
しかし、本当にそれでよいのだろうか。

ホテルのレストランが弱くなれば、ホテルは少しずつ「寝る場所」に近づいていく。もちろん、宿泊特化型ホテルや限られた機能で高い効率を追求するホテルには、それぞれの戦い方がある。だが、ラグジュアリーや高付加価値化、地域との接続、滞在価値の向上を目指すホテルにとって、料飲は決して脇役ではない。
海外の成功事例を見れば、そのことは明らかである。
たとえば、パリのFour Seasons Hotel George Vは、ホテル内の三つのレストランで合計六つのミシュランスターを有している。ここでは、ホテルが単に宿泊施設として評価されているのではない。食そのものが目的地となり、ホテル全体のブランド価値を押し上げている。宿泊しなくてもそのレストランに行きたい。食を目的にそのホテルを訪れたい。そこまで料飲が磨かれたとき、ホテルは「泊まる場所」から「訪れる理由のある場所」へと変わる。
ロンドンのThe Connaught Barも象徴的だ。ホテルのバーでありながら、The World’s 50 Best Bars 2025で6位にランクインしている。しかも、単にクラシックな高級ホテルバーとして評価されているのではない。現代的なカクテル、洗練されたサービス、空間演出によって、ホテルバーのあり方を更新してきた存在である。バーがホテルの付帯施設ではなく、ホテルの顔になっている。
さらに、JLLの分析では、著名シェフや受賞歴を持つ高評価レストランを有する高級ホテルは、平均的なラグジュアリーホテルに比べてADRが8.8%高く、RevPARが18.6%高いとされている。これは重要な数字である。優れた料飲は、単にレストラン単体の売上をつくるだけではない。宿泊単価を高め、ホテル全体の収益性にも影響を与える可能性があるということだ。
つまり、料飲はコストセンターではなく、ブランドセンターになり得る。
日本のホテルには、本来、食の強みがある。四季の食材、地域の発酵文化、和食、洋食、中華、寿司、鉄板焼き、バー、茶、酒、器、設え、サービス。これほど食の表現が豊かな国は多くない。にもかかわらず、ホテルの中では、その価値が十分に経営戦略として扱われていないことがある。
「レストランは儲からない」
「人が足りない」
「原価が合わない」
「外の有名店には勝てない」
そうした声も分かる。だが、そこで思考を止めてしまえば、ホテルの可能性も止まってしまう。問うべきは、料飲を続けるかやめるかではない。どのような料飲なら、そのホテルの価値を高められるのかである。
朝食を地域体験にできないか。
バーを宿泊客と街の人が交わる場所にできないか。
レストランを記念日需要の入口にできないか。
料理人の思想をホテルのブランドメッセージにできないか。
地元生産者との関係を、地域価値として打ち出せないか。
料飲は、単に料理を出す部門ではない。ホテルの思想を表現する場であり、地域との関係を可視化する場であり、お客さまの記憶に深く残る場である。
もちろん、すべてのホテルがミシュランスターを目指す必要はない。著名シェフを招くことだけが正解でもない。大切なのは、自館にとって料飲がどのような役割を担うのかを明確にすることだ。ラグジュアリーなら、そのホテルに泊まる理由になる食体験を。リゾートなら、その土地に来た意味を感じる料理を。シティホテルなら、街の人にも選ばれるレストランやバーを。宿泊特化型なら、朝食や軽飲食に特化した価値設計を。
料飲を曖昧に持つのではなく、戦略として持つ。
その視点が必要である。
前回、人手不足なのか、人件費不足なのかという問いを投げかけた。料飲はまさに、その問いと直結している。料理人、サービススタッフ、ソムリエ、バーテンダー、レセプショニスト。人が価値をつくる部門だからこそ、そこに投資する覚悟が問われる。人に投資せずに、記憶に残る食体験をつくることはできない。
ホテルの料飲は、付帯ではない。
滞在の記憶をつくる装置である。
客室だけでは、ホテルの印象は完結しない。
食の記憶が加わってはじめて、滞在は深くなる。
これからのホテルに必要なのは、料飲を縮小する発想だけではない。料飲をどう再設計し、ホテルの価値へ変えていくかという経営視点である。
食の記憶を持つホテルは、強い。
そこには、もう一度訪れたい理由が生まれるからだ。
ホテレス編集長 義田