
以前、あるホテルに宿泊していたときのことだ。
シャワーを終えたばかりで、まだ服も着ていなかった私の客室に、突然スタッフが入ってきた。
ノックもなければ、声かけもない。スタッフが自ら鍵を開け、入室してきたのである。
その手にはスマートフォンがあった。
ターンダウンサービスのあるホテルでもない。驚いて理由を尋ねると、スタッフは「間違えた」と説明した。
その後支配人に言うと報告がなかったとのことで、支配人自身も、信じられないという様子だった。
正直に言えば、私自身は裸を見られたことなんて気にしていないが、これが女性だったらどうなっていただろう。誰にも知られず、静かに過ごしたいと考えているお客さまだったら。
私が気にしなかったからといって、問題が小さくなるわけではない。
ホテルの安全は、被害を受けた人の気持ちに甘えてよいものではない。
もちろん、人間が仕事をする以上、ミスを完全になくすことは難しい。
しかし、だからこそ考えなければならない。
人が間違えることを前提に、ホテルはどこまで安全を設計しているのだろうか。
客室の鍵は、お客さまを守るためにある。その鍵を開けられるスタッフの行動を、ホテルはどこまで管理できているのだろうか。
ホテルにとって客室は商品である。しかし、宿泊するお客さまにとっては、一時的であっても自分だけの生活空間だ。
眠り、着替え、無防備な姿になる。
その安心が失われれば、どれほど素晴らしい設備やサービスがあっても、ホテルへの信頼は簡単に揺らいでしまう。
あれから何年か経つが、私は今でもこの出来事を思い出すのはなぜか。支配人が問題を問題として捉え、その場しのぎではなく改善する意思を示してくれなかったからか。
そして、ホテルの安全を考えるたびに、もう一つの疑問が浮かぶ。
私たちは、お客さまを守ることばかり考えて、スタッフを守ることを忘れていないだろうか。
今月宿泊予約管理システム「TEMAIRAZU」への不正アクセスにより、最大約445万人分の予約情報が第三者に閲覧・取得された可能性があると公表された。
対象には、氏名や連絡先だけでなく、宿泊施設名や宿泊日なども含まれる可能性があるという。
これは、ホテル業界そのものの信頼を揺るがす問題である。
ホテルが日々取り扱う宿泊予約情報が、外部システムを通じて流出する可能性が生じた。たとえホテル自身が直接攻撃を受けたわけではなくても、お客さまにとっては、自分が宿泊するホテルに預けた情報であることに変わりはない。
今やホテルの運営は、予約管理、顧客管理、決済、販売管理など、さまざまな外部システムによって支えられている。効率化や生産性向上のためには必要な進化だろう。
しかし、システムを外部に委ねることと、お客さまを守る責任まで外部に委ねることは違う。
お客さまがいつ、どこに泊まるのか。
その情報は単なるデータではない。その人の行動や私生活に関わる情報である。
ホテルマンは、お客さまの名前や好みを覚えることを大切にしてきた。前回の滞在を覚えていることが、上質なサービスにつながる場面もある。
しかし、覚えていることを何でも口にしてよいわけではない。
例えば、以前と違う同伴者と来館したお客さまに対して、親切心から過去の滞在について話してしまう。あるいは、同伴者を取り違えて声をかけてしまう。これはあるあるだが、あってはならない。
何気ない一言が、お客さまの私生活に大きな影響を与えるのだ。
知っていることと、話してよいことは違う。
お客さまのことをよく知っていると示すことだけが、一流のサービスではない。何を言わないべきかを判断できることもまた、ホテルマンに求められる能力だろう。
さらに、ホテルが向き合うべき危険は情報流出だけではない。
10月21日、ウェブサイトなどで使用されるPHPの脆弱性への対応が呼びかけられ、企業のシステム管理や対応判断にも注目が集まった。
こうした問題が起きたとき、ホテルの経営者は自社のシステムがどのような影響を受けるのか、すぐに把握できるだろうか。
必要であれば、売上への影響を承知のうえでサービスを一時停止する判断ができるだろうか。
これは、情報システム担当者だけの仕事ではない。
ホテルの安全を守る責任は、客室の扉の前で終わるわけではない。お客さまの情報が存在する、その先まで続いている。
一方で、ホテルの現場では、別の意味での安全が脅かされることもある。
客室清掃中、スタッフがドアのラッチをかけたままにしていたことをきっかけに、宿泊客から高級腕時計がなくなったと申告され、ホテルが高額な補償を行った事例がある。
また、お客さまが持ち込んだ高級ワインの状態が悪かったとして、ホテル側に代金を請求するケースもある。
もちろん、ホテル側に落ち度があれば、責任を負わなければならない。清掃中の客室管理に不備があったのであれば、それ自体は改善すべき問題である。
しかし、管理上の不備があったことと、申告された損害のすべてがホテルの責任であることは、必ずしも同じではない。
お客さまの訴えを真摯に受け止めることと、訴えのすべてを事実として認めることは違う。
また、アメニティを常識的な範囲を超えて無料で要求されるようなケースもある。
一つひとつは小さな出来事に見えるかもしれない。しかし、現場のスタッフが「お客さまだから断れない」と考え続ければ、どこかで無理が生じる。
日本のホテル業界には、お客さまの期待を超えることを美徳としてきた歴史がある。
その姿勢が、日本のホスピタリティの評価を高めてきたことは間違いない。
ただし、期待を超えることと、際限なく要求を受け入れることは違う。
理不尽な要求に対して、現場のスタッフが一人で頭を下げ続ける。それを管理職が見て見ぬふりをする。
それでは、おもてなしという言葉が、スタッフを守らないための言い訳になってしまう。
本来、管理職が果たすべき役割は、お客さまの要求を何でも受け入れることではない。事実を確認し、必要な対応を判断し、現場のスタッフを守ることである。
スタッフを守ることは、お客さまを軽視することではない。
むしろ、スタッフが安心して働ける環境があってこそ、安定したサービスが生まれるのではないだろうか。
ホテルという仕事の難しさは、人と人との距離感にもある。
お客さまの名前を覚え、好みを理解し、会話を重ねる。時には、長年の付き合いを通じて家族のような信頼関係が生まれることもある。
それはホテルという仕事の魅力であり、私自身も大切にしてきた価値である。
しかし、その関係が私生活にまで入り込むと、別の問題が生じる。
若いスタッフがお客さまと親しくなり、ホテルの外で一緒に食事や飲みに行くようになる。その延長で金銭のトラブルに発展する。
あるいは、私的な交際がもつれ、ホテルでの仕事にまで影響が及ぶ。
こうした問題は、有名なブランドホテルだから起きないというものではない。
むしろ、お客さまとの距離を縮めることが高く評価されるホテルほど、その境界線を意識する必要があるのではないか。
若いスタッフに「お客さまと良い関係を築きなさい」と教えるのであれば、同時に、どこから先は慎重になるべきなのかも教えなければならない。
何か問題が起きたとき、誰に相談できるのか。
お客さまから私的な誘いを受けたとき、どのように対応すればよいのか。
そうした教育や相談体制も、ホテルがスタッフを守るために必要な仕組みだろう。
また、スタッフ同士の人間関係にも目を向ける必要がある。
特にリゾートホテルでは、職場と生活圏が重なりやすい。社員寮で暮らし、休日も同じ地域で過ごし、交友関係も限られる。
その近さが強いチームワークを生む一方、人間関係がこじれたときに逃げ場が少なくなることもある。
スタッフ同士の恋愛や親密な関係そのものが問題なのではない。
問題は、上下関係や個人的な感情が仕事に持ち込まれたり、トラブルが起きても周囲に相談できなかったりすることである。
ホテルは、お客さまにとって居心地のよい場所であると同時に、そこで働く人にとっても安心できる場所でなければならない。
ここまで書いてきたことに共通するのは、どれも一人のスタッフの注意力だけでは防ぎきれないという点だ。
客室への無断入室を防ぐための手順。
宿泊客の情報を不用意に話さないための教育。
過剰な要求を受けた際の判断基準。
お客さまとの私的な関係に関するルール。
そして、システムへの不正アクセスに備える管理体制。
いずれも、個人の経験や善意だけに頼るべきものではない。
新人スタッフは、知識や経験が不足しているから間違えることがある。
一方で、ベテランスタッフは、仕事に慣れているからこそ、確認を省いたり、昔からのやり方を変えられなかったりすることがある。
経験が浅いことも、経験が豊富であることも、それぞれ異なるリスクを持っている。
だからこそ、ホテルは教育を一度きりのものにしてはいけない。
ルールをつくり、守られているかを確認し、問題が起きたら見直す。
そして、スタッフが不安や違和感を覚えたとき、遠慮なく声を上げられる組織をつくる。
安全管理とは、事故が起きたときに謝罪することだけではない。
事故が起きる前に何をしていたのか。事故が起きたあとに何を変えたのか。
その積み重ねが、ホテルへの信頼をつくるのだと思う。
ホテルは、非日常を提供する場所である。
日常を忘れ、特別な時間を過ごしてもらう。そのために、私たちは料理を磨き、空間を整え、サービスを高めてきた。
しかし、安全だけは、何があっても日常でなければならない。
安心して眠れること。
自分の情報が守られること。
理不尽な要求に対して、スタッフが一人で抱え込まなくてよいこと。
働く人が、安心して仕事に向き合えること。
それらは特別なサービスではない。ホテルとして守るべき当たり前のことである。
私は、ホテルの価値は、何を提供できるかだけでは決まらないと思っている。
何を守れるか。
そして、守るべきもののために、何を断れるか。
お客さまを大切にすることと、お客さまの言いなりになることは違う。
お客さまとの距離を縮めることと、守るべき一線を越えることも違う。
ホテルは、お客さまを守る場所である。
同時に、そこで働くスタッフを守る場所でもある。
スタッフを守れないホテルが、お客さまを守り続けることは難しい。
おもてなしの本当の価値は、どれだけお客さまに近づけるかだけではない。
守るべき一線を、どれだけ大切にできるか。
その姿勢にこそ、これからのホテルの品格が表れるのではないだろうか。
HOTERES編集長
義田 真平
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