
ホテルニューオータニのカプリ。
私にとって、そこで飲む一杯のカクテルは別格である。
もちろん、カクテルそのものがおいしい。
しかし、決してそれだけではない。
長い年月が染み込んだカウンター。落ち着いた照明。静かに流れる時間。そして、慣れ親しんだバーテンダーとの何気ない会話。
そのすべてが重なって、一杯のカクテルの価値をつくっている。
そこには、新しいホテルのバーでは簡単に再現できない空気がある。
私は、そうした場所に身を置く時間が好きだ。
そして不思議なことに、訪れるたびに自分自身の小ささを感じる。
何十年という時間をかけて、多くの人々に愛され、さまざまな時代を見てきた場所。
そのカウンターに座ると、まだ何もを成し遂げていない自分が、これから何を積み重ねていけるのかを考えさせられる。長い歴史の前では、自分の歩みはまだ始まったばかりなのだと思う。
決して居心地が悪いわけではない。
むしろ、その感覚が心地よい。
背筋が伸びるような気持ちになる。
そして、もう少し頑張ろうと思える。
ニューヨークで私が好きなアルゴンキンもそうだ。
東京會舘にも、同じような魅力を感じる。
もちろん、それぞれに歴史も個性も違う。
しかし共通しているのは、建物や内装の美しさだけでは説明できない、独特の空気をまとっていることだ。
そこにしかない時間が流れている。
私は、これこそがブランドの本当の価値なのではないかと思っている。
最近、日本各地で新しいホテルの開業が続いている。
世界的なラグジュアリーブランドが次々と進出し、これまで日本にはなかったブランドの名前を目にする機会も増えた。
著名な建築家やデザイナーが起用され、最新の設備が導入される。
魅力的なレストランやバー、スパ、ウェルネス施設も備える。
ホテル業界にとって、新しい投資が生まれ、新たな選択肢が増えることは歓迎すべきことである。
私自身、新しいホテルを訪れることは大好きだ。
どのような思想でつくられたのか。
どんな空間が生まれたのか。
どのような人たちが働いているのか。
開業したばかりのホテルには、未来への期待が詰まっている。
ただ、その一方で、最近のホテル開発を見ていると、時折疑問に思うことがある。
いったい、何が欲しいのだろうか。
世界的なブランドの名前だろうか。
高い客室単価だろうか。
話題性だろうか。
投資家からの評価だろうか。
もちろん、どれもホテル事業を成立させるうえで重要な要素である。
しかし、ブランドを集めることそのものが目的になってはいないだろうか。
有名なブランドを誘致する。
立派な建物をつくる。
美しい内装を整える。
優秀な料理人を招く。
そして開業する。
それで、ホテルは完成したと言えるのだろうか。
私は、そうは思わない。
なぜなら、ブランドの看板は開業日に掲げられても、そのブランドを体現する人間は、開業日に完成するわけではないからだ。
どれほど世界的に有名なブランドであっても、そこで働くスタッフが、そのブランドの思想を理解し、日々の行動で表現できなければ、どこか歪なホテルになってしまう。
ブランドの理念を研修で学ぶことはできる。
サービススタンダードを覚えることもできる。
マニュアルに沿って行動することもできる。
しかし、それだけでブランドを体現できるわけではない。
なぜ、そのブランドはそのサービスを大切にするのか。
なぜ、その距離感でお客さまと接するのか。
なぜ、その一言を添えるのか。
なぜ、その空間には、その振る舞いがふさわしいのか。
そうした思想の本質にたどり着くには、時間がかかる。
そして何より、経験が必要である。
私は、ホテルのサービスというものは、突き詰めれば非常に小さなことの積み重ねだと思っている。
お客さまの表情を見る。
名前を覚える。
前回の会話を覚えている。
何を求めているのかを考える。
言われる前に気づく。
失敗したら、その理由を考える。
昨日よりも、少し良い仕事をする。
一つひとつは、決して派手なことではない。
しかし、それを毎日繰り返す。
一年、五年、十年と積み重ねていく。
その中で、お客さまとの関係が生まれ、スタッフ同士の信頼が育ち、やがてそのホテルらしいサービスが形になっていく。
カプリのカウンターに感じる空気も、きっとそうした仕事の積み重ねから生まれたものなのだと思う。
長く使われてきたカウンターが素晴らしいのではない。
そのカウンター越しに、何十年もの間、お客さまと向き合ってきた人々の仕事が素晴らしいのである。
そして、その仕事を受け継いできた人たちがいる。
だからこそ、そこには歴史が宿る。
私は、ホテルマンとして成長するうえで、「突き詰めてやる」という姿勢が非常に大切だと思っている。
一つの仕事を覚えたら終わりではない。
できるようになったら、次はもっと良くできないかと考える。
お客さまに喜んでいただけたら、なぜ喜んでいただけたのかを考える。
うまくいかなかったら、何が足りなかったのかを考える。
そして、もう一度お客さまと向き合う。
その繰り返しによって、仕事は少しずつ深くなっていく。
しかし、今のホテル業界を見ていると、少し気になることがある。
新しいホテルが開業するたびに、人が動く。
新しいブランド。
新しいポジション。
新しい給与条件。
新しい肩書。
もちろん、転職することが悪いわけではない。
異なるホテルで経験を積むことによって、視野が広がり、成長する人もいる。
待遇や働く環境を改善するために職場を変えることも、当然の選択だ。
ただ、ブランドの思想を十分に理解し、それを自分のサービスとして表現できるようになる前に、また次のホテルへ移ってしまう。
次のホテルでは、また別のブランドの理念を学ぶ。
その次も、また新しいブランドのスタンダードを覚える。
そうして経験したホテルの数は増えていく。
しかし、一つのホテルの文化を深く理解し、育て、次の世代に伝えた経験は、どれほど残るのだろうか。
ホテルを渡り歩くことと、ホテルマンとして成熟することは、必ずしも同じではない。
これは、働く人だけの問題ではない。
むしろ、経営者や運営会社こそ考えなければならないことだと思う。
新しいブランドを誘致することには熱心なのに、そのブランドを体現する人材を十年かけて育てる覚悟はあるのだろうか。
開業時に必要な人数を採用することだけでなく、その人たちが長く働き、成長し、次の世代を育てたいと思える環境をつくっているだろうか。
新しいホテルをつくることと、良いホテルを育てることは、まったく違う仕事である。
前者には資金と計画が必要だ。
後者には、時間と覚悟が必要だ。
そして、歴史あるホテルにも同じことが言える。
古いから素晴らしいわけではない。
長く営業しているだけで、良いホテルになるわけでもない。
歴史に甘え、変化を拒み、昔からのやり方を繰り返すだけでは、やがて時代に取り残される。
本当に価値のある歴史とは、ただ年月が過ぎたことではない。
時代が変わるたびに、何を守り、何を変えるべきかを考え続けてきた結果なのだと思う。
建物は改修できる。
設備は更新できる。
サービスの方法も変わっていく。
しかし、お客さまと真摯に向き合う姿勢だけは、簡単に変えてはいけない。
私は、ホテルのブランドとはロゴや名前だけで成立するものではないと思っている。
そのホテルで働く人たちの振る舞い。
お客さまとの関係。
何十年も積み重ねてきた小さな仕事。
そのすべてが、ブランドをつくっている。
だから、ブランドを誘致しただけで、そのホテルがブランドになるわけではない。
ブランドの思想を理解し、それを日々の仕事で表現し、何年もかけて自分たちの文化として育てていく。
そこまでできて初めて、その場所に本当の意味でのブランドが根づくのではないだろうか。
私は、これからも新しいホテルの誕生を楽しみにしている。
新しいブランドが日本に進出することも、新しい発想を持ったホテルが生まれることも、業界にとって必要なことである。
ただ、開業した瞬間が、そのホテルの完成形であってほしくない。
むしろ、開業は始まりにすぎない。
十年後、そのホテルにはどのようなスタッフがいるのだろうか。
二十年後、どのようなお客さまが帰ってくるのだろうか。
三十年後、どのような会話がカウンターで交わされているのだろうか。
そして五十年後、若いホテルマンが先輩から何を受け継いでいるのだろうか。
そこまで考えてこそ、ホテルをつくるということなのだと思う。
ホテルニューオータニのカプリに足を運ぶたび、私はそんなことを考える。
歴史が染み込んだカウンターに座り、慣れたバーテンダーと会話を交わし、一杯のカクテルを飲む。
そこで感じる心地よさは、一朝一夕につくられたものではない。
何人ものスタッフが、何人ものお客さまと向き合い、小さな仕事を積み重ねてきた。
その時間が、今の空気をつくっている。
そして、その長い歴史の前で、私はいつも自分の小ささを感じる。
まだまだ、やるべきことがある。
まだまだ、積み重ねなければならないことがある。
そう思わせてくれる場所が、私には必要なのだ。
ホテルは建てられる。
ブランドは誘致できる。
優れたデザインも、最新の設備も、お金をかければ手に入る。
しかし、人が育ててきた文化は、お金だけでは買えない。
お客さまと向き合った時間も、積み重ねた信頼も、簡単には手に入らない。
新しいホテルが次々と生まれる時代だからこそ、問いたい。
そのホテルは、開業することだけを考えていないだろうか。
十年後、三十年後、そして百年後。
そこに、何を残したいのか。
ホテルは建てられる。しかし、歴史は建てられない。
こうして私は、今日もバーのカウンターで原稿を書いている。
HOTERES編集長
義田 真平
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