#編集長コラム25

#編集長コラム25 人生に、何を残すのか。 所有から体験へ、そして「どう生きるか」へ。変わり始めたラグジュアリーの価値

最近、自分の中で「贅沢」の意味が少し変わってきた。

良い服を着たい。良い靴を履きたい。おいしいウイスキーや日本酒、ワインを楽しみたい。

今でも、もちろん好きである。
上質なものには、それをつくった人の技術や思想が宿っている。長く使うほど愛着が湧くものもあるし、美しいものに触れることで人生が豊かになることも知っている。
だから、「モノなんて必要ない」と言いたいわけではない。
ただ、以前よりも心から求めるものが増えた。

よく眠れた朝。
疲れが残っていない身体。
身体を動かす時間。
自然の中を歩く時間。
家族や友人とゆっくり過ごす時間。
何もしなくていい時間。
そして、できるだけ長く健康でいられること。

私自身、これまでの人生で今が一番、健康への意識が高い。
身体を鍛えるようになった。口にするものを以前より意識するようになった。酒を控えた翌朝の身体の軽さも知った。最近ではピックルボールにも夢中になっている。

以前なら、空いた時間があれば何か予定を詰め込みたかった。
今は、何もない空白の時間が少しうれしい。
先日、「無為自然」という宿に滞在した。

目の前には海と森が広がっている。何か特別な予定があるわけでもない。ただ景色を眺めながら、自分のことを考えていた。
これから何をしたいのか。
何を大切にしたいのか。
誰と、どんな時間を過ごしたいのか。
普段は仕事や予定に追われ、そんなことをゆっくり考える時間は意外と少ない。
何かを買ったわけではない。
何か特別なアクティビティをしたわけでもない。
それでも、その時間を私はとても贅沢だと感じた。

そして、もう一つ強く心に残ったのが食事だった。
目の前に出てくる食材が、一つひとつ宝物のようだった。
料理人の技術が素晴らしいのはもちろんである。ただ、それ以上に感じたのは、食材そのものが持つ力だった。
野菜も、魚も、肉も。
「これでもか」と言わんばかりに、素材そのものから命の力が伝わってくる。
私は一年を通してさまざまなホテルやレストランで食事をするが、これほど食材そのものが持つ生命力を感じ、食べることに感動する機会は、そう多くない。

高価な食材だからではない。
希少だからでもない。
一皿を前にして、「生きているものをいただいている」と、改めて感じさせられたのである。
食べることは、生きること。

当たり前すぎて、普段は意識することもない。
でも、自然を眺め、自分自身について考え、食材の命の力を身体に取り込む。

その一連の時間を過ごしていると、ラグジュアリーとは何かを「説明された」のではなく、身体で少し理解したような気がした。

そして私は、「無為自然」という言葉そのものも好きになった。
何かを足し続けるのではなく、余計なものを少しずつ手放していく。

無理に何者かになろうとするのではなく、自分のままでいる。
仕事も、立場も、欲しいものも増えてきた今だからこそ、そんな時間を求めるようになったのかもしれない。
「無為自然」。
もしかすると、これは宿の名前であると同時に、今の私を表している言葉なのかもしれない。

これは単に、私が歳を重ねたからなのだろうか。
それとも、私たちが考える「豊かさ」の定義そのものが変わり始めているのだろうか。

先日、ある文章に触れて深く考えさせられたことがある。

人は旅立つとき、何も持っていけない。
服も、時計も、クルマも、家も、肩書きも、お金も。
当たり前のことだが、改めて考えると重い。
では、人生に本当に残るものとは何なのだろう。

誰と出会ったか。
誰と笑い合ったか。
誰を大切にしたか。
どんな景色を見たか。
そして、誰かの人生にどんな記憶を残せたか。
そう考えると、モノの価値も少し違って見えてくる。

良い靴も、良い服も、良い酒も、それ自体が人生のゴールではない。
その靴を履いて、どこへ歩き出したのか。
その服を着て、誰に会いに行ったのか。
その一本を、誰と分かち合ったのか。
そこで、どんな言葉を交わしたのか。
結局のところ、人生に残るのは、そこで過ごした「時間」なのかもしれない。

消費の世界では長く、「モノからコトへ」と言われてきた。
何を所有したかではなく、何を体験したか。

高価なものを手に入れるだけではなく、旅をする。おいしいものを食べる。文化に触れる。その場所でしか得られない経験に価値を見いだす。

しかしすでにその先が始まっているように感じている。
モノからコトへ。
そして、コトからエモへ。
ここで言う「エモ」とは、単に感動的な演出を施すことではない。

その時間に、何を感じたのか。
誰と過ごし、どんな会話をしたのか。
自分の中に、何が残ったのか。
例えば、高級なワインを飲むこと自体がラグジュアリーなのではない。

その一本を、誰と、どんな話をしながら飲んだのか。
美しいホテルに泊まることだけがラグジュアリーなのでもない。

そこで家族とどんな時間を過ごしたのか。
大切な人とどんな記憶をつくったのか。

あるいは一人で、自分自身とどれだけ静かに向き合えたのか。
そして、その時間によって自分がどう変わったのか。

さらにその先には、
「その経験を経て、これからどう生きるのか」
という問いがあるのだと思う。

所有から、体験へ。
体験から、感情へ。
そして、生き方へ。

ラグジュアリーの価値は、そこまで広がり始めているのではないだろうか。
そう考えると、近年ホテルの世界でウェルネスや自然とのつながりが重視されていることも、私にはとても自然に感じられる。

ただし、ウェルネスを「最新のスパがある」「サウナがある」「ヨガプログラムがある」といった設備の話だけで終わらせてはいけない。

それでは、かつて大理石やシャンデリアの豪華さを競っていた時代と、本質的にはそれほど変わらない。
大切なのは、その滞在によってお客さまに「何が起きたか」である。

いつもより深く眠れた。
身体を動かしたくなった。
日々の食生活を見直すきっかけになった。
デジタルデバイスを手放す時間が心地よかった。
朝の空気の中を歩いた。
普段はなかなかできない話を、家族とゆっくりできた。
土地の文化に触れ、新しいことに興味を持った。
ホテルで過ごした時間が、その後の日常に小さな変化を起こす。

私は、これからのホテルにとって、この「チェックアウトした後の日常に何が残るか」が、とても重要になると思っている。

実際、先日の沖縄で私自身にも最近そんな体験があった。
訪れたホテルで、ゴルフについて考える機会があった。

私はこれまでゴルフをしてこなかった。

ところが、館内のシミュレーションゴルフを体験し、目の前に広がる芝の緑を眺めているうちに、少し考え方が変わった。

自然の中を歩く。
身体を動かす。
仲間と同じ時間を過ごす。
そして、年齢を重ねても長く続けられる。
「ゴルフ、始めてみようかな」と思った。

一つのホテルで過ごした時間が、これまで関心のなかった世界への扉を少し開いてくれたのである。

ホテルの価値は、滞在している数日間だけで完結しなくてもいい。

ホテルで味わった一皿をきっかけに、食への向き合い方が変わる。
深く眠れたことで、自宅の睡眠環境を見直す。
自然の中で過ごしたことで、週末の過ごし方が変わる。
初めて体験したスポーツを、その後も続ける。
旅先で出会った人や文化によって、物事の見方が少し変わる。
そう考えると、ホテルという産業が持つ可能性は大きい。

ホテルは、単に人を宿泊させる場所ではない。
人の人生という長い時間の中に、一時的に深く関わることのできる産業である。
家族の節目。
子供たちの成長。
特別な記念日。
大切な人との食事。
仲間とグラスを重ねた夜。
一人で何もせず、景色を眺めていた時間。

何年か経てば、客室が何平方メートルだったかは忘れてしまうかもしれない。
ディナーの細かなメニュー名も覚えていないかもしれない。

それでも、
「あの旅は本当に楽しかったな」
「あのとき、みんなで笑ったな」
という記憶は残る。

だとすれば、私たちが届けているものは、客室でも、料理でも、一過性の体験ですらないのかもしれない。
お客さまの人生に残る「時間」そのものなのではないだろうか。

そして最近、私自身の健康への意識が高まっている理由も、少し分かってきた。
ただ長生きしたいわけではない。
健康でなければ、好きな服を着て出掛けることもできない。
おいしい酒や料理を楽しむこともできない。
家族と旅行することも、友人と笑うことも、新しいことに挑戦することもできない。
健康それ自体が人生の目的なのではない。

これからも人生を楽しめる自分でいたいのである。
健康は、新しいラグジュアリー商品なのではない。

人生を楽しみ続けるための、ラグジュアリーの土台なのだと思う。
AIが進化し、あらゆる日常が便利で速くなっていくこれからの時代、この価値はさらに大きくなるのではないだろうか。

仕事は速くなる。
情報はいくらでも手に入る。
欲しいものは、すぐに届く。
だからこそ、逆に希少になるものがある。

静けさ。
自然。
深い眠り。
健康な身体。
誰にも邪魔されない時間。
大切な人の目を見て話す時間。
そして、自分自身と向き合う時間。

かつてこのコラムで、「ラグジュアリーとは、価格ではなく思想である」と書いた。
その考えは、今も変わっていない。
ただ、今はもう一歩先を考えている。

ホテル側がどんな思想を持っているかだけではなく、
そこで過ごす人が「これからどう生きたいのか」。

そこまで想像し、寄り添うことが、これからのラグジュアリーには求められるのではないだろうか。

主役は、空間ではない。
ブランドでもない。
そこで時間を過ごす、お客さま一人ひとりである。

良い服を着たい。
良い靴を履きたい。
うまい酒を味わいたい。
美しいホテルにも泊まりたい。
これからも、その気持ちは大切にしたいと思う。

けれど、それらは人生を彩ってくれるものであって、人生そのものではない。
大切なのは、それらを通して誰と出会い、誰と笑い、何を感じ、どう生きたかである。
そしてホテルは、その人の「生き方」にまで、小さな変化を起こすことのできる、稀有な産業なのだ。

物質的な豪華さを競った時代。
目新しい体験を求めた時代。
その先で、私たちは今、自分自身の人生のあり方へと目を向け始めている。

もっと健やかに。
もっと自然に。
もっと大切な人と。
もっと自分らしく。

これからのラグジュアリーを決めるのは、値段でも、豪華な装飾でもない。

その時間が、自分の人生に何を残したのか。
そして、自分は、誰かの人生に何を残せたのか。

人生の最後に問われるのは、何を持っていたかではなく、どう生きたか。
ホテルという仕事もまた、人の人生の中に、豊かな時間を残す仕事でありたい。

良い服も、良い靴も、良い酒も、美しいホテルも、私はこれからも好きだと思う。
でも最後に残るのは、きっとそれだけではない。

誰と出会ったか。
誰と笑ったか。
誰を大切にしたか。

そして、どう生きたか。

そこまで人の人生に関われるホテルがあるとしたら。

それこそが、これからの時代の本当の「贅沢」なのだと思う。

HOTERES編集長
義田 真平
(過去のコラムは下記のプロフィールをクリックしてください)

義田真平(Yoshida Shimpei)

義田真平(Yoshida Shimpei)

㈱オータパブリケイションズ 執行役員 月刊HOTERES編集長

兵庫県出身。阪神タイガースとともに育つ。ホテルやレストランなどの現場経験を通じて、「答えは現場にある」という信念を培う。現在は創刊60年を迎える業界専門誌の編集長として、歴史を継承しながら、変革が求められるホテル業界の現在地と未来を発信。
編集、イベント、自治体連携を横断し、人材不足、F&Bの収益化、DX、ラグジュアリー、地域観光、次世代経営などを主なテーマに、現場の実務知と経営視点をつなぎ、業界に必要な問いと提言を届けている。

取材、寄稿、講演、セミナー、紙面企画、協業など、ホテル・観光業界の未来につながるご相談をお待ちしてます。

https://hoteres.com/pages/contact

著者の記事一覧